2026年8月8日、加藤智大個展「In between」の関連イベントとして、東京造形大学教授の藤井 匡氏を迎え、加藤智大とのトークイベントを開催しました。
大学で工芸を学び、鉄を素材に立体作品を制作してきた加藤は、自身の制作と彫刻の歴史や文脈との距離について、これまでさまざまに考えてきたといいます。
今回のトークでは、彫刻について研究・批評を行ってきた藤井氏との対話を通して、加藤の作品を改めて彫刻の視点から捉えるとともに、工芸と彫刻、その境界について考えていきました。
当日の対話から、そのテーマがよく表れている部分を抜粋してご紹介します。
トークイベントの全編をPDFにて公開しています。
FULL TALK ↗ PDF

PROFILE
藤井 匡(Tadasu Fujii)
1970年山口県生まれ。九州大学文学部哲学科美学美術史研究室卒業。1995年から2007年まで宇部市役所学芸員として「現代日本彫刻展」他、展覧会を担当。その後、日本各地で展覧会やアート・プロジェクトに携わる。著書に『現代彫刻の方法』『公共空間の美術』『風景彫刻』『眞板雅文の彫刻=写真』『ミニマリズム後の人間彫刻』『彫刻の場所と空間 2005-2024』『彫刻家と素材のあいだ』など。現在、東京造形大学教授。
加藤 智大(Tomohiro Kato)
1981年東京都生まれ。2006年多摩美術大学大学院美術研究科工芸専攻修了。鉄を素材に、「物質と社会」「匿名と個」「内と外」といった境界をテーマに制作を行う。主な個展に「The face speaks」(TEZUKAYAMA GALLERY、2026)、「“binary”」(TEZUKAYAMA GALLERY、2024)、「徹虚 -TEKKYO-」(HUNCH、2022)、「Anonymous」(TEZUKAYAMA GALLERY、2019)、「太陽と鉄」(岡本太郎記念館、2013)など。2013年、第16回岡本太郎現代芸術賞 岡本太郎賞を受賞。
彫刻の文脈から、加藤作品を捉える

加藤:加藤と申します。今日はお集まりいただきありがとうございます。
僕はいわゆる彫刻というか立体物をこういうふうに鉄で作るんですけども、もともとは大学では工芸科っていうところに在籍してまして、彫刻っていうと結構ビビっちゃうところがあるんですよね。
アカデミックな彫刻の世界っていうと、歴史深いものではルネッサンスから脈々とロダンとかミニマルから色々あるとは思うんです。
その前段のなんでしょう、文脈みたいなものからは少し受け継がれていない、ちょっと特異な状況で立体というか人体の彫刻を作り出しているもので、門外漢といえば門外漢だし、でも足を踏み入れたからには逃げては通れないなっていうところで、藤井先生に学術的なところで、僕はそこまでの知識がある方ではないしただひたすら自分の感じるままに作ってたんですけども、今自分の作品がどういう作品になっているのかっていうのを、改めて固定化しない程度にちょっと「キュッ」とこう締めていただきたいなというのが今回の趣旨になっております。よろしくお願いします。
今回の僕の展覧会の「In between」っていうタイトルなんですけども、「~の間に」っていう意味がありまして、ハンナ・アーレント*1が人間と人間の間に社会っていうもの、世界っていうものがある、という言葉があって、そこから引っ張ってきたタイトルになっていて。僕の作品って人体なんですけども、断続的に表面があって解体して再構築されているような、断面の構造がシリアルに積み重なってそれで存在が立ち上がるっていう、そういう構造をしているんですけどもこれが僕の作品の特徴というか。それがモアレの効果*2だったり、あとは透過して奥の物、背景が見えるとか、そういう特色があって揺らぎがある感じの印象があるとは思うんですけども、これがちょっと幽霊みたいに漂うような彫刻として意識して作っています。
人間が遠くから見た時にこの積層の作品って一直線の構造だけになるんですよね。視点を固定した時には、合理的でごく最小単位の線の状況だけしか映らないんですけど、視点を動かすとモアレの効果であったりとか、斜めから見た時に像が浮かび上がるような構造を持っていて、視点が動くように、見る方が動くように促すような彫刻になってます。
藤井:まず、彫刻についてですが、20世紀になると抽象彫刻が登場してきますが、やはり彫刻といえば人の姿である、あるいは人の姿を立体物で作れば彫刻であると、オーソドックスに言うとそうなんですね。工芸科出身だったということで、それは彫刻ではないのかどうかという話でしたが、彫刻ではダメなのかと僕なんかは思うんですが。
加藤:僕は彫刻で全然いいんですけど。どう呼ばれるかは特に何も考えてなくて。ただ昔、日芸の彫刻家出身の友達に「お前の作品は彫刻じゃねぇんだよな」って言われたことがあって。「え、何?」「お前の作品、現代美術だよ」って言われて「え?」みたいな。
藤井:現代美術は彫刻ではなく、彫刻は現代美術ではない?
加藤:みたいなこと言うんですよ。「じゃあ何よ、彫刻は?」ってことを言うとなんかちょっと遠い目して「重力かな」みたいな、言うんですよ。
藤井:(笑)
加藤:「は?」みたいな感じで。その言葉が結構悶々としてて。もう彫刻家って、なんかそのいわゆる芸術っていうよりも量を作って、こう世界に成立させる、立たせるみたいな。
そこの男気みたいな。なんかそういうマッチョなニュアンスを感じて、じゃあ俺別に彫刻じゃなくていいし、みたいな。
藤井:売り言葉に買い言葉(笑)
加藤:でももうずっとそれが頭にあって、なんかそこでもコンプレックスですよね、うん。
藤井:確かに、かつての日本では、そういうふうに彫刻が神聖なものとしてみなされていましたよね。その中で、ある造形的な到達が成されたのは事実ですが、ではそれはいつまで有効なのかとも思うんですね。
それはある特殊な条件の中で成立をしたもので、素朴に言えばマーケットがなかったわけです。芸術作品でなくてもいいんですが、何かを作って、それに社会的な意味や価値があるかどうかと考える時に、一番簡単な理解は、それを見知らぬ誰かがいくらかで買うことです。経済行為になると、意味や価値が発生していることをほぼ誰も疑わないですよね。
問題はいわゆる純粋芸術*3と奇妙な呼ばれ方をしたもので、売れるかどうかではないところでの価値が求められた場合です。「これは売り物ではない」となった時に、それはなぜ価値があるのかを別途に考えなければいけなくなる。
加藤:芸術家は仙人説ですよね。霞食くって生きている説ですよね、日本の。
藤井:実際には霞を食っては生きていけないので、みんな何かをして食っていくのですね。アルバイトであったり、学校の先生であったり、いろんなものがあると思います。けれども、自分の人生をかけてやっているのはそれではない。
ある特殊な評価というか、経済的な評価でないところでそれに意味や価値があるかどうかとなった時には、そこで批評というものが必要になると思います。自分のやっていることを定義づけたり、位置づけたりして、自分のやってることはこれなんだと確認するものが必要になる。純粋さを求める人間の倫理的動機みたいなものの確認ですね。
加藤:なんか今のお話聞いて、その差異を強調されていると思うんですよね。その個人であるという珠玉、それって要は個人としての他者とは違う差異みたいなもの。でも差異を探すって非純粋的というか。
藤井:オリジナルとは何か、オリジナリティとは何かという時に、誰もやっていなければオリジナルというような他律的な価値観でいいのかということ?
加藤: 差異を探すって僕個人的な話かもしれないですけどいやらしいというか、なんでしょうね。
重箱の隅的な感じを、言葉の印象かもしれないんですけどもそういう印象があって、僕の前には絶対にゴームリーとかグザビエ・ヴェイヤン*4さんとか、そういう割と人体とエフェクトだったり物質感だったりとかって割と共通した作家性を持っている方もいて、完全な差異ってなかなかやっぱり難しいし。でもじゃあどこが違うんだよとかって必死に叫ぶっていうのは、すごく美しい話だと思うんですけど。でもそしたらそれが純粋性ってことなんですかね?
藤井:この作品を見た時には、今名前の出たアントニー・ゴームリー*5というイギリスの彫刻家——1980年代から登場してくる——を普通に連想しますよね。ただ、だからいけないかというと、そうでもない。ゴームリーと同じではないし、むしろゴームリーと比較をすることで加藤さんのやっていることが見えてくるところがある。そのように積極的に繋いでいくのが美術史だと思います。
人間の姿を立体物で作るというのは、大昔から人間がやってきたことで、ほとんどのことは既になされているともいえます。ただ、だからといって新しい可能性がゼロではない。それが僕たちの生きている美術の現実だと思うんですね。
工芸と彫刻、その境界を問い直す

藤井:時間も少なくなってきましたね。美術か美術ではないかという話も少ししたいと思います。「彫刻とは何か?」ということですね。僕がいい加減なこと言ってきて、でも30年ぐらい言い続けると誰も突っ込まなくなってくるという話です。30年ぐらい前、1990年代後半にインターネットを使い始めた頃のことですが、まだ彫刻家がほとんど個人のホームページを持っていなかった時代に、検索エンジンで「彫刻」と検索すると、一番出たのはハンコ屋さんだったのです。印鑑を彫るということですね。それ以降、彫刻というのは、僕たちは美術の中で見ているけれども、美術の中に入っていない彫刻もあると思うようになったんです。美術の中に入っている彫刻と、美術の中に入ってない彫刻があって、おそらく、美術の中に入っている工芸と、美術の中に入ってない工芸もあると思うんです。それをどうのように言うかを考えるのです。
これは最近言っていることで、いい加減だと思われて誰も返事すらしてくれないのですが、「シリアスな彫刻」という言い方をしています。もともとの言葉としてあるのは「シリアスな写真」、「シリアス・フォトグラフィ」です。「プロの写真家とは何か?」というと、基本的にはまちの写真屋さんで、証明写真や家族写真を撮っている人のことです。ところが写真史や美術館の写真のコレクションにはそうしたものは入ってこないですよね。誰からも頼まれずに、自分勝手に、自らの意図と表現によって撮影されたものが写真史を形成している。プロとアマチュアでは分けられないので、「シリアスな写真」という言い方がされるのです。
加藤:要は批評的であるかどうかということですよね?
藤井:うん、あとはやはり意識の問題。表現という問題かもしれない。今どき表現というと、人間が疑われている以上、表現も疑われているのですが、近代的にざっくりと言えばそうなんだろうと思う。
そういう意味で、彫刻もシリアスなものとシリアスではないものがあるだろうと思うのですね。僕に言わせれば、招き猫も信楽の狸も鮭をくわえた熊も高崎だるまも全部彫刻になる。ただ、シリアスではないということなんです。一番最初にあった「彫刻とは何か?」ということで、「こんなの彫刻じゃねえよ」というのは、こうしたシリアスさの追求の中で出たのだろうと思いますが、それでも、シリアスな彫刻はもっと広いのだろうと思うんですね。
加藤:広い?
藤井:だから「こんなの彫刻じゃない」と言われるものでも、シリアスに作っているものもあるわけですよ。
加藤:シリアス…。ちょっと待って(笑)。
藤井:工芸と彫刻というような変なヒエラルキーはどこか違うのではないかと思っているのです。大きなきっかけになったのは、村上隆*6が2000年に『スーパーフラット』のテキストの中で、「様々なヒエラルキーはもうないんだ」だから、「ハイカルチャーとサブカルチャーの区別もないんだ」という主張をしています。その価値基準がマーケット一元論になっていいのかという問題はあるにしても、彫刻家は自分たちを守るために妙に工芸を下に見てきたけれども、その時点でそれが成立しないことははっきりしたはずなのです。
例えば、加藤さんも出されていると思いますけれども、欧米のアートフェアとかに日本の抹茶茶碗が出たりしますが、彼らは別に抹茶を飲むために買うわけではない。欧米人はただアートとして買っているわけですよね。そうなってきている状況の中で、アートかアートではないか、あるいは彫刻か彫刻ではないか、工芸か工芸ではないかという問いは成り立っているのか? 最初に「コンプレックスがある」というようなことも言われましたが、その根拠は本当にあるんだろうかと思うのです。
加藤:要はそのスーパーフラットなるものがシリアスかシリアスじゃないか?すらも攪拌しているっていうことなんですよね?これもなんかハイレッド・センター*7の話ともちょっと繋がる話かもしれないですよね。そうすね、撹拌されているのは間違いないですよね。
シリアス、僕はシリアスっていう言葉がすごい好きで、なんか僕こんなチャランポランな雰囲気ではあるんですけども作品はシリアスでいたいみたいな。「キリッ」みたいな雰囲気はやっぱあるんですよ(笑)。でもこう真面目な顔した彫刻の前では「ヘロっ」としていたいっていうか、そのギャップみたいなそういう作家像でありたいなっていうのはなんかあるんですけど。「適当だよ」みたいな。でもなんかシリアスって言い方あれですけど、そのデザインとしてのシリアスとその態度としてのシリアス、制作態度としてのシリアス。
藤井:制作態度ではないです。制作態度にも関わるんでしょうが、やはり「物の流通の仕方」だと思います。
加藤:流通の仕方?
藤井:要はアートとして流通するかどうか。
加藤:ハンコ屋の彫刻なのか、アートマーケットで流通する彫刻なのか?という。
藤井:そうそう。
加藤:それがシリアスかどうかの境界という捉え方なんですよね?
スーパーフラットだと境界が攪拌されているという状況なんですよね。
藤井:そうそう。サブカルチャーがシリアスにもなり得るということだと思うんですよ。
加藤:そうですよね。それで売ってきてますもんね。
工芸っていうものを(笑)。
加藤:さっき僕が、工芸に対してどんなコンプレックスを持っているかっていうところに対してちょっと答えてないと思うんで、答えるとしたらですよ。
まず僕も物を作るのが好きです。銅板で絞って器を作ります、みたいな。そういう優しい学生生活を送ってきたんですが、卒業してからまるで受け皿がない状態。
藤井:でも器を作ればそうでもなかったんじゃないの?
加藤:そこにあんまり道がなかったんですよね。芸大だったらもしかしたらちょっとした繋がりでっていうのがあったのかもしれないですけど、基本的には山にこもって、たまにクラフト展に出して、みたいな。なんか開いてないなというか。僕も卒業してからですけどひねくれちゃって、先生も結局大学で教えて作品で食ってねーじゃんみたいな。
いろんな人に当てはまっちゃって、ちょっと難しいんですけども。
藤井:楽しくなってきたよ(笑)。
(会場笑)
加藤:それで言うと、さっき言ったシリアスではないんですよね。
やっぱり僕が感じたシリアスじゃなかったんですよ、先生方頑張って作ってるけど。だからさっき「態度の話ですか?」って聞いたら、「態度じゃなくて、流通の問題かな」って言ったのはやっぱりそうだなと思うんですよ。
頑張って作ってるんですよ、すごい技術で。でもカバちゃんとか作ってるんですよ。誰とは言わないですけども。
藤井:それはやめよう(笑)。
加藤:やめます。やめます(笑)。
藤井:続けてどうぞ。
加藤:可愛い世界を作ってるんですよね。さっき「批評性のことですか?」と質問したと思うんですけど、そこになんか批評性がなく。その工芸の作家さん達に共通してるのがまるで批評性がなくって。
でも工芸家ですって謳ってる作家さんの中でも、もの派を受け継いでいる人がいるんですよ。そこはなんかシリアス。言葉がちょっとあれですけど、シリアスな雰囲気があるんですよ。なんか批評性があるんですよ。そういう人たちはすごい好きなんですけど、なんかあのファンタジーで、それ作って環境問題とか言っちゃってんの?みたいな。
そんなに身近に思ってる?なんかリアリティがない。そこにモダニズムがないというか。
自分がそれを作っている理由というものをしっかり通って作っているのか?っていうところが物足りなく感じたんですよね。
そこで僕がやっぱり美術の勉強をしなきゃって見たのが、会田誠と山口晃の2人展で、会田誠さんの作品のあの「ヴィトンのバックが豊作じゃ~!」っていう絵を見てちょっとおしっこちびりそうになったっていう、そこからちょっと現代美術に行くっていうところなんですよね。それで工芸にコンプレックスが。
藤井:なるほどね。加藤さんが批評性と言ったのは、作り手の意識としての批評性だから、その現状をどう捉えるのかという意味で使われたことが分かりました。その中で加藤さんはこういう作品を作っていて、僕は彫刻でもいいと思うし、工芸だという人がいれば工芸でもいいと思うし、両方違うよと言ったら、両方違うでもいいと思うんです。
だた、そういうことが議論されるのが重要というか。さきほど開かれてない、閉じられた世界だという話がありました。僕もそれは楽しくないなと思っています。曖昧なのかもしれないけども、曖昧であるがゆえに見る人間の考えを誘発する、それが一番面白いのかなと思います。
最後までご一読いただき、ありがとうございました。
本トークが、加藤智大の作品をあらためてご覧いただくきっかけとなれば幸いです。
NOTES
*1 ハンナ・アーレント(Hannah Arendt, 1906–1975)
ドイツ生まれの政治思想家。『人間の条件』などで、人間が他者とともに生きる「公共性」や「共通世界」について論じた。人々の「あいだ」に生まれる空間や関係を重視している。
*2 モアレ効果(Moiré effect)
規則的な線や模様を重ね合わせた際、そのずれや角度の違いによって、本来存在しない縞や波のような模様が現れて見える視覚現象。
*3 純粋芸術(Fine Art/Pure Art)
実用的な用途を主な目的とせず、美的・芸術的価値そのものを追求する芸術を指す概念。工芸やデザインなどの「応用芸術」と対比して用いられてきた。
*4 グザビエ・ヴェイヤン(Xavier Veilhan, 1963–)
フランス・リヨン生まれの現代美術家。彫刻、インスタレーション、映像など幅広い表現を手がけ、古典的な造形と先端技術を組み合わせた作品で知られる。
*5 アントニー・ゴームリー(Antony Gormley, 1950–)
イギリスの彫刻家。人体を起点とした彫刻やインスタレーションを通して、身体と空間、場所との関係を探究している。
*6 村上隆(Takashi Murakami, 1962–)/スーパーフラット(Superflat)
日本の現代美術家・村上隆が2000年前後に提唱した芸術概念。「平面性(flat)」を日本美術からマンガ・アニメなどの視覚文化へと連なる特徴として捉えるとともに、ハイアートとサブカルチャーなど、既存の文化的な階層や境界を横断する考え方として展開された。
*7 ハイレッド・センター(Hi-Red Center)
赤瀬川原平、高松次郎、中西夏之によって1963年に結成された前衛芸術グループ。日常生活や都市空間に介入するイベントや行為を展開し、従来の「作品」という枠組みに収まらない活動を行った。